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「子どもの権利条例」に異議あり

  • 東山邦守
  • 2022年5月24日
  • 読了時間: 5分

更新日:2022年5月24日

武蔵野市が制定を目指している子どもの権利条例。先日、中間報告が公表され、パブリックコメント・市民意見交換会・コミセンでの地域フォーラムが行われています。市当局は来年度の施行を目指していますが、その内容に問題はないのでしょうか?

■大人と子供との不和を助長するおそれ

■「いじめ」の解決は期待できない

■子どもを特定のイデオロギーに巻き込むな


大人と子供との不和を助長するおそれ

 5月19日、武蔵野市の西部コミセンで《子どもの権利条例検討委員会》委員長である喜多明人氏(早稲田大学名誉教授)が「なぜ、いま、子どもの権利条例なのか?」と題して講演しました。

 少子化が進んだ結果、今や15歳以下の世代は全人口の11%(約1400万人)に過ぎないマイノリティとなってしまいました。さらに、内閣府『令和元年版 子供・若者白書』には、諸外国と比べて青少年(13~29歳)の自己肯定感が低いというデータも存在します。

 この理由について、喜多氏は「おとな社会が極端に強い時代=子どものおとな忖度社会」があると主張し、「今の中高生は、学校の中で『すべきことに気づき、それに応える』という振る舞い方に慣れすぎています。だから『自分で好きにしてもいいよ』と言われるとどうしていいかわからず困ってしまいます。そんな状態の子どもを引っ張り出して、『さあ何でもいいからあなたのしたいことをしなさい』と言われても、私たち高校生には助けになるどころか苦痛でしかない」という発言を引きますが、先に述べた『令和元年版 子供・若者白書』を見ると、青少年の約80%は自分の親から大切にされていると感じているとのデータもあり、一つの発言を以て全体的な風潮を既定するのは拡大解釈ではないでしょうか。

 喜多氏は、サッカー部に入りたかったにもかかわらず高校受験に差し支えがあるからと親に反対された中学生が自らの主張を認めてもらう、つまり、身近な親や教師に対して自分の意思を主張することを「子どもの権利」を巡る一例として挙げますが、大人と子どもとの信頼関係が確立していれば多少の諍い(いさかい)があったところで双方が納得する解決に至るはずで、そこに「権利」という概念を持ち出して不和を助長すべきではないと思います。


子どもオンブズパーソンに「いじめ」の解決は期待できない

 万葉歌人・山上憶良は「銀(しろかね)も金(くがね)も玉も何せむに勝(まさ)れる宝子にしかめやも」と詠んでいます。「如何なる財宝よりも我が子が大切である」という我が子に対する親の愛情が表現されていますが、残念ながら、そうした親の愛情に恵まれぬ子どもが少なからず存在します。それどころか、親から虐待されたり、自分自身が養育される立場にありながら肉親の介護を余儀なくされたりする例も見られます。こうした児童虐待やヤング・ケアラーの問題、言い換えるならば大人との関係で「子どもの権利」が侵害される事態が生じないよう、何らかの仕組み(それは「子どもの権利条例」でなくとも良い)が必要であることは言うまでもありません。

 問題は、「いじめ」に代表される子どもどうしの関係で一方の「権利」が侵害された場合です。中間報告には、第三者的相談救済機関として「子どもオンブズパーソン(子どもの権利擁護委員)」を創設するとありますが、十分に機能するでしょうか。

 2021年に北海道旭川市で女子中学生が「いじめ」を苦にして自殺するという事件が起こりました。彼女は中学校に入学した直後の2019年から「性犯罪」に等しい「いじめ」を受け、警察沙汰にもなっています。にもかかわらず、彼女が通っていた中学校は事態を隠蔽し続け、教員組合の支援を受けて当選した西川将人市長(当時)も調査には消極的でした。その後、西川市長は世論に押される形で第三者委員会を設置しましたものの、なかなか結果が出ず、新しく就任した今津寛介市長が「いじめ」の存在を認定するまで事態は動きませんでした。これに対して立憲民主党や共産党の市議会議員からは「いじめ問題の政治利用だ」と批判の声があったといいます。形式的には第三者的機関であっても、市の機関である以上は任命権者である市長に対する忖度が働きかねないのです。


スクールカースト問題に対する無関心

 中間報告は、市内在住の子どもたちの意見を反映すべく「平和に生きる権利」や「差別されない権利」を条文案に盛り込む方向性が示されています。これらの権利は、子どもに限らず全ての人に保障されるべきことは言うまでもありません。

 では、子どもたちの日常生活において、それらは具体的に如何なる形で損なわれるのでしょうか。

 最近、「スクールカースト」という言葉を耳にするようになりました。これは、学校において見られる生徒間の人気に基づく階層的な序列のことです。自己主張が巧みで運動部などでも活躍し、異性からの受けも良い「陽キャ」と呼ばれる生徒がクラスの主導権を握る一方、自己主張が苦手で文化部で自分の世界に籠り、異性からの受けの悪い「陰キャ」はクラスのお荷物的存在となりがちです。単に序列が生ずるだけでなく、「陰キャ」は「陽キャ」から嘲笑され、ひいては「いじめ」の対象となります。これは、生徒どうしの関係に止まりません。学校行事においてもリーダーシップを取る「陽キャ」たちは教師たちとも良好な関係を築いていることが多いのです。「陰キャ」からすれば、学校という場こそ自らの「平和に生きる権利」や「差別されない権利」を損なう忌むべき存在と言わねばなりません。

 こうした学校という場に潜む「差別」を克服し、全ての子どもたちが「平和」な学園生活を送れなければ、「平和に生きる権利」や「差別されない権利」など絵に描いた餅に過ぎません。前述の喜多氏は、米軍による武蔵野市初空襲に由来する「武蔵野市平和の日」(11月24日)と国連が定めた「世界こどもの日」(11月20日)とを結び付けて何らかの行事を行うべきと主張していますが、「こどもの権利」を損なうものは戦争に限らないのです。無理やりに両者を結びつけることは、子どもを特定のイデオロギーに巻き込むことに繋がり、とても容認できるものではありません。


 以上のことから分かる通り、この条例は「子どもの権利」を実質的に守るものではなく、その美名を利用して特定のイデオロギーを宣布しようとするものと言うより他にありません。この構図は、住民投票条例を巡る動きと似ています。良識ある市民の皆さんにおかれては、それぞれの立場から条例の問題点を指摘し、共に反対の声を上げましょう。







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